寺嶋眞一さんの文章です

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歪んだ判断

敬語まじりの日本語ばかり使っていると、人間の理性の方も歪んでくる。

同じ目的を持つ道具を作らせても、人により装飾的に凝った道具を作る者と、実用一点張りなものを作る人間とがいるのだが、日本人は装飾的なものを上、実用的なものを下と見る癖をもつ。交通機関の座席の見方にしても、一等 (first class)と二等 (economy class) を居住性を主として考えられた座席と、経済性を重んじて作られた座席とに分けて考えることはない。必ず一等が「上」で、二等は「下」なのである。日本人は生存者の叙勲からレストランのカツ丼にいたるまで、このような見方を適用している。客扱いをするものは、「下」のことを都合上「並」と呼ぶ。

アメリカでは、年が河口にできると、港に近い低地はビジネス街となり、ダウン・タウン (down town) と呼ばれ、周りの高地は住宅地となる。東京も、まあ、これに似たり寄ったりの情況であるが、ある時、日本語のうまい外人に「銀座は下町にあるのですか」と聞かれて、僕はハタと返答に困った。「そういえば、まあ、そうでしょう」と、わけの分かったような・分からぬような返事をしてごまかしたが、アメリカ人のいう down town を日本語で下町と直訳するのは、日本人の感覚には合わない。銀座は、確かに地理的にdown town にあるのだが、高級商店街のある場所を「下」と評するのは、日本人の上下判断に沿わないのである。日本人が呼ぶ東京の下町とは、江東地区のことである。

日本では「卓球 (Ping-Pong) は、選手のやるもの、ピンポン (Ping-Pong) は、素人のやるもの」というものやら、「じゅうたん (carpet) は高級品、カーペット (carpet) は安物のじゅうたんのこと」という者までいる。普通名詞にまで上下感覚を入れなければ収まらないのが日本人である。だから、日本人のいう外人という言葉までが、アメリカ人言う foreigner やalien (外国人) とは違っている。

日本人は、ぺこぺこお辞儀をする。これも、上下判断の合図である。日本人同士は、「日本人は礼儀正しい国民だ」と言い合っているようだが、列の割り込みやら、人に譲るということを知らぬ交通道徳を見ていると、日本人は礼儀正しさにどのような意味を持たせているのやら疑問がわいてくる。外国で育った者は、「礼儀正しい日本人が、どうして他人の足を踏んで黙っていたり、人を押しのけたりするのだろう」という。当の日本人にしてみれば、大切なのは上下の判断を守ることなのであるから、自分の目上に当たらぬ者をどう取り扱おうと、それは気にならぬことなのである。日本人がペコペコお辞儀をするのは、上下関係に結ばれた同じ穴の狢どもに限られている。

日本人の進学熱は大したものである。義務教育は世界一徹底し、4人に1人の割合で大学生が誕生する。「大学の教官は、教育に熱意を失い、学生は遊んでいる」といっても、一向に進学熱は衰えない。「詰め込み教育はよくない」と言いながら、詰め込み教育の入学試験が改められない。本当に日本人は教育熱心な国民であろうか。本当に日本人が教育熱心であれば、教育不熱心の大学教官の存在が許されるはずがなかろう。本当に日本人が詰め込み教育を悪いと思えば創造の教育に切り換えたことであろう。しかし、日本人は、実は教育などに熱意を示す人間ではないのだ。日本人が大切に考えているのは、上下判断のことである。教育という名の下に人間の格付け判断がなされるがために、日本人には教育が大切なのである。だから、日本人は、どんなつまらない事でも格付け判断になることは頭につめこむし、格付け判断の対照とならないことは、必要なことといえども耳を傾けない。「外国で教育を受けても役に立たないよ」というのも、日本人社会の序列争いには無力だという意味である。

日本人が教育熱心というのも偽りであれば、また、日本人が科学を尊重する国民というのも偽りである。僕は大学の教官であり、博士でありながら研究計画(research project) が許可されない。自分自身の研究をしない人物が、大学の教官としてふさわしいものかどうかの議論も湧かない。別に僕だけが程度の悪い学者だからでもないらしい。軒並み助手には許可がおりないようである。研究などしなくてよいものなら、何も博士を助手に雇うことははずだが、それを雇う。そして、どの教官も「研究、研究」という。研究計画の許可 (grant) が降りない者が研究を試みるのは意味のないことだが、これを皆やりたがるのは、研究実績が序列判断につながっているからである。学生教育の方は、熱を入れたところで序列に関係がないので、特に研究だけをやりたがる。「教育は、研究の邪魔」なのだそうである。

自分に研究費の出ないことを事務の責任者に話すと「あなた方は好きなことをやっているのだから、、、、」という。自分の仕事が自分の好きなことであることは、人間の幸せというものだが、この「好きなことをやる」ということが、「必要な研究費が出なくて当然」という言いがかりになるようである。要するに、日本人学者が無理を押してあくせくと動き回るのは「人が自分をどう見るか」という序列判断にドライブされてのことである。科学とか独創とかいった言葉も、日本人にとっては、物の上下を語る時の素材としかならない。

寺嶋眞一 「日本人の世界 (III)」の一部より、ドクターサロン16巻8月号 (7. 1972) に掲載。
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/sub5.htm

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このページは、Ichiroが2011年1月11日 14:08に書いたブログ記事です。

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